【 一般財団法人 あすなろ会 会長賞 】

後ろ向きバラード
あすなろ会  井上真琳 24歳


 2年前、学生の私が死んだ。
 新社会人として自信と希望に満ちていた私は、社会の荒波、というか渦に呑まれて綺麗に消えてしまったのである。
 1年前、少し頑張ってみようと思った。
 別に今の仕事に希望を見出した訳じゃない。けれど、ここで死んでいてもどこにも進めないということは、1年間で嫌という程に思い知ったから。
 頑張って頑張って、不器用なりに頑張って。
 それからまた1年、今私はしがない金融営業マンとしてここにいる。
 
 はぁ。
 決まった電車に乗り込み出社、昨日の成果をまとめ今日の交渉先リストを確認。それから朝礼が始まり、決まったルーティンで毎日が始まる。
 向いてないなぁ。
 私は営業職になってからというもの、自分にこの仕事が向いているだなんて一度も思えなかった。むしろ逆。人と話すのは苦手だしそれが初対面ともなれば尚更。業績を追い成果を伸ばすがつがつしたスタイルも苦手。何なら周りは男性しか居なくて、正直肩身が狭い。苦手、苦手、苦手。消極的な感想ばかりが頭の中でぼんやりと浮かぶ。積極性が売りの営業マンが笑える話だ。
 なんて1人考えながら今日も自転車を走らせた。
 
 本日最後のお客さん。快活で人情派、怒るとちょっと怖い。中々癖があるけれども色々な意味でお世話になっている先である。
 「こんにちはー」
 「おお来たか、まあ座れ座れ」
 店内のソファに座ると、可愛いグラスに注がれたコーヒーを出してくれた。ありがたくいただいて、他愛もない話と、少し仕事の話をする。数年営業をして思ったことだが、案外営業にとって1番大切なのは食の好き嫌いがないことなのかもしれない。向かう先々で、それこそ孫のように菓子やお茶を出してくださるお客さんの前で美味しくいただく。案外これだけでコミュニケーションが取れるということも、最近分かってきた。
 「それにしても、あんた随分明るくなったよな」ふと、社長がおかしな事を言う。
 「え、そうですか?」
 「俺ぁあんたがこんな明るい子だって知らなかったよ。最初の頃なんて暗ーく下向いちゃって」
 「あれはまだ窓口業務やっていたときだし、他の仕事してただけですよー」
 「どうだかなぁ」
 意外だった。今日も今日とて後ろ向きだった自分がそんなふうに見えているとは、思いもしなかったから。
 けれどきっと社長がそういうのだから、私は少しは明るく見える子になったのだろう。確かに、人と話すのは苦手だが、話すことが嫌いなわけじゃない。話が盛り上がれば嬉しいし、好感を寄せてくれればもっと嬉しい。
 そうか、これくらいでいいんだ。仕事のモチベーションなんて。
 思えばこんなに後ろ向きな自分にも、お客さんの困ったことに答えられるくらいの知識は付いてきた。知っているお客さんも、初対面のお客さんも、交渉とか成果とかは関係なく、我ながら親しみをもって接してくれているような気もする。
 なんだ、ちゃんと仕事できてんじゃん。
 自分に出来ることなんてそんなにはない。相変わらず営業という仕事は苦手だ。だからじっくりと、自分のペースで、無理せず人と対話していく。
 
 「ご馳走様でした」
 空になったグラスを合図に、今日の仕事はお終いだ。
 「おーい、これ持ってきな」
 帰り際に社長の奥さんからチョコレートを貰った。
 嫌という程に見慣れた道で自転車を走らせる。夕暮れがかった街と、特に目立った成果のない仕事鞄。
 ああ、やっぱり私は向いてない。
 口の中のチョコレートが甘くとろけていく。自分の仕事に胸を張って好きと言える日は来るのだろうか。今はまあ、嫌いって程ではないかな。
 社会人3年目、きらきらした新社会人の若々しさはもうないけれど、それにしてもまだ、この仕事への問いに答えを出すには、まだまだ若すぎるのだ。
 我ながら未成熟な心を抱えたまま、自転車を走らせる。さぁ、まだ締め作業が残っている。甘い唾を飲み込んで、私は会社のドアの前に立った。

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