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【テーマ:仕事を通じて、かなえたい夢】
ぼくらが働きに出る理由
大阪府  中 村 亮 太  28歳

働きはじめて6年目になる。自分が仕事を好きなのか、いまだによくわからない。私はもともと世捨て人メンタルなきらいがあって、金曜の夜から月曜の朝まで喉を封印しても平気な人間だ。だから、毎日の会社勤めなんて恐怖の対象でしかなかった。

そんな私が今日に至るまで、自分の不器用さを持て余しつつもなんとか俗世に留まっている。ひとさじの社会性すらない己の本性を顧みると、やはり不思議である。

その理由を考えた。

昔の新聞で強く印象に残っているコラムがある。「働くことで失う自由もあるが、得られる自由もある」という一節だ。学生時代は「なんじゃそら」と感じたが、今ではその意味がなんとなくわかる。たとえば会社帰りにいつもの立ち飲み屋へ寄り、日替わりのクラフトビールを注文して、「俺も大人になったよねえ」なんて思う一方、ひとりなのに酩酊して帰宅し、ロボット掃除機よろしくソファの下に潜り込んだりする。たしかに、昔とはまたちがった味の自由だ。失った時間的余裕の代償がこれでいいのか、と思わなくもないが、自分で物事を決める自由は、今の方が確実に大きい。

ところで、ワークライフバランスという言葉がある。異議はない。ただ、氾濫するその言葉に、あまり共感を覚えなくなってきたのも事実である。まるでワークとライフが、水と油のように反発し合うことが前提のように思えるからだ。自身に当てはめると、たしかに好き嫌いは依然謎だけれど、仕事は、やはり人生を成す重要な要素のひとつではある。人生という大きな鍋の中の、わりと大きめの具材。あくまで人生が主で、仕事や趣味などは従。その時々で何を優先するかは自分次第。この決定権こそ、私が働くことで得た自由ではないか。自由な生活とは、とんでもなく痛快だ。

仕事は人生の一部。全部ではなく一部。そう整理することで、かえって従たる仕事を大事にしようと思える。生煮えの具や焦げた具が鍋にあったらマズいのである。

前は仕事と私生活を断固として区別していた。今も基本は同じだが、両者を断崖絶壁が隔てるのも惜しいと感じる。同じ頭と身体を使うのだし、公私の完全な遮断はすこぶる困難である。

酒を飲んでも仕事の話しかしない人がいる。他人の噂話や陰口に終始することもある。そんな飲み会の帰り道は、いつも釈然としない思いを抱く。私の中のリトル世捨て人がひょっこり顔を出して、もっと愉快な時間の使い方ができたのでは? と問いかけてくる。

本当は、感動した本の内容とか、シロクマの戦闘能力とか、オザケンの曲のすばらしさとか、カレーには何の具を入れるべきかとか、そういう話がしたいのだ。

幼稚な考えなのかもしれない。たしかに驚愕の人見知りのくせに精神的露出狂でもあって、酒で意図的に内面を露出していることは認める。それでも、仕事には侵されない相手の人肌の部分が垣間見えたとき、愛着が湧いてくる。ワークではないライフの部分が見えて、相手も人間だと実感したとき、やはりラブリーに思えてくる。

とどのつまり「なぜ働くか」は「楽しく生きたい」という凡庸な願望に行き着く。楽しく生きたいから楽しく働きたい。でもこの思想、シンプルで悪くないじゃないかと思って、ワークライフバランスに代わる「ワークインライフ」と名づけてみた。人生の中の仕事。私の中ですとんと肚落ちして、これ特許とれるんじゃねと興奮したが、試しにググってみたらとっくに先例があった。がっかりである。と同時に、自分と同じ考えの人がちゃんと存在することに安心した。

これが唯一の正解だとは思わない。ただ、何か見失ったときの方位磁針を頭にもつことで、ワークの取扱いに手を焼く身としては肩の力が抜けたというか、いい火加減で鍋を揺らせられそうにはなったのである。

いつか、同僚の働く理由も訊いてみたい。それこそ酒でも飲みながら、カレーには絶対に刻んだレンコンを入れるべきことを伝えたあとで、語り合ってみたい。

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