【 奨 励 賞 】

【テーマ:仕事探しを通じて気づいたこと】
英語教員への道
福岡県  井 邑  勝  86歳

小学3年のとき近所のお茶の先生に留守番を頼まれ家に上がった。座敷にピサの斜塔を背景に立っている紳士の写真が掛かっていた。外国航路の船長のご主人が世界一周をしたときに撮ったものだった。しばらくじっと眺めていると、いつか僕も……と夢心地になる。それは、人が働く舞台は日本だけじゃない、海の向こうにもあるという夢のお告げのように思われて、僕は浮き浮きしていた。

ところが、小学4年のときに太平洋戦争が始まり、兄が召集されガダルカナルで戦死。それで家業の鍛冶屋は閉鎖になった。そして旧制中学1年のときに国破れて山河ありになり、団子汁や薩摩芋の食生活が始まる。しかし僕の周囲の人々は路地裏に野菜畑を作って食糧難の時代を生き抜いていく。学制改革で新制高校へと進学していくなかで、海の向こうからアメリカさんが運んできた民主主義の学問の自由を精神的な支柱に新たな夢を抱き始める。

そんな時代に高校の先輩が第1回フルブライト給費留学生として米国に渡った。するとまた、僕もいつか……と夢みるようになった。牛肉やチョコレートが腹一杯食べられると聞かされた民主主義の国アメリカとはどんな国なんだろうか。また、戦時中に日本は英語の使用を禁止したが、アメリカは逆に日本語を兵隊に教えていったと知って、アメリカと英語に対する好奇心と探究心がふつふつと湧いてきたのでした。それで外国語大学に進学して米国に留学しようと思った。しかし、大家族でまだ団子汁の生活を送っている家計から数万円もの入学金を出せるわけがない。それで大学進学を諦めざるを得なくなった。ところが、僕が高校を卒業した年に姉が戦時から働いていた燃料会社が閉鎖になって、姉に退職金が転げ込んできたのでした。姉は貴重な退職金の一部を僕の進学費用に出してくれた。こうした時運と金運の恩恵に浴して僕は大学に進学できたのでした。

当時の日本育英会の奨学金は月額3千円で学校納付金を払っても少し余った記憶がある。日英両語の比較研究をテーマに勉学に励み、留学生試験に挑戦したが駄目だった。が、それは実力が不足していたから落ちたので悲しいとは思わなかった。悲しいのは夢をもてないことだと。それで高校・中学の英語科の教員免許を取得して英語の教員になることにしたのでした。しかし高度経済成長期の前で、僕の居住地では筆記試験はなく面接だけで、それも縁故採用が多く、卒業後に正規の英語教員にはなれなかった。そんなとき昭和初期の世界恐慌で大不況の超就職氷河期に東京大学を卒業したが小学校の代用教員の職しかなかったという僕の大学の教授の話を思い出して、産休代用教員を我慢強く続けて時運を待つことにした。そうすると4年後に第2次ベビーブームの生徒の波が中学校にも押し寄せてきて、多数の教員が新規採用されることになり、晴れて正規の英語教員に採用されたのでした。そして31年間、約3千人の生徒に英語を教えて定年退職。退職後は余生ではなく、それまでに培った経験と技能を活かして社会のために役立つ人生の完成期という考えから、JICA派遣の日本語教員として南米コロンビアで2年、ブラジルで2年、日系人社会で日本文化と日本語の継承に努めてきました。こうして海の向こうで働くという少年時代の夢を実現させたることができたのでした。

人生百年の時代と言われる現在、30代半ばから40代半ばとされる就職氷河期世代が生きていく道程はまだまだ半世紀以上もある。どうかへこたれずに、かならず時運・金運が巡ってくると信じて、生き抜いて欲しい。拙文ではあるが、僕のこのエッセイが少しでも参考になれば幸いするところです。

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