【 奨 励 賞 】

【テーマ:現場からのチャレンジと提言】
休みたいほど大好きな仕事
大阪府  N 氏  42歳

休みたいほど大好きな仕事

「働く若者に贈る先輩からのエール」と聞くと、上司が新入社員を温かく激励するような、ポジティブな場面を思い浮かべる。だが、多様性の時代である。「エール」も多様であっていいはずだ。それに、仕事はポジティブだけでは乗り切れない。落ち込む、ぼやく、手を抜く、など、ときにネガティブになることも大切だ──労災は、ポジティブを貫き過ぎた悲劇とも言える。だから、へそ曲がりの私は、ネガティブなエール(?)を贈ってみようと思う。

家庭教師を生業とする私は、起床すると、あることを行う。授業の予習や教材の準備……ではない。スマホの電源を入れ、保護者から「お休み」の連絡が届いていないか確認するのだ。「何てひどい教師だ!教え子の授業を何だと思っているのだ」──こう憤慨された方は、こちらをお読みいただきたい。

「野球選手って不思議なもので、雨で中止になると、物凄く嬉しいんだ。今日一日、野球から解放されると思うと、本当に嬉しかった。毎朝起きると、カーテンを開けて空を見上げた。どこかで雨を期待して寝ていたってこと」(2010/6/1 中日新聞)。

私とまったく同じではないか。実はこの記事を寄せた人物とは、プロ野球で輝かしい記録を残し、監督としてもドラゴンズを4度のリーグ優勝に導いた、落合博満なのだ。では彼は、ひどい選手だったのだろうか。否である。ひどい選手が3冠王(打率・本塁打・打点でトップ)に3度も輝けたはずはない。レジェンドに対して礼を失さぬように付言するが、彼は決して野球が嫌いだったわけではないだろう。だが「職業」として選んだ以上、それは趣味ではない。好きなことではあっても、好きなようにはプレーできない。4番打者の「重み」と、勝敗の「責任」を絶えず感じていただろう(チームの「負け」を背負えてこそ真の4番と言われる)。だからこそ彼は、たまに解放されたかったのだ。「雨の恵み」を乞いたくなるほどまでに、重責を感じていた彼こそ、真のプロフェッショナルと言えるのではないだろうか!

話を私自身に戻すと、私だって、「指導」が嫌いなわけではない。むしろ逆である。家庭教師を始めて4半世紀近くになる現在でも、実は「教えること」が楽しくて仕方ない。生徒の学年、科目、学力、性格、態度、反応、などによって「楽しさ」は異なるが、やはり「何事かを教える」という営みは、とても奥深くて面白い──いかに解りやすく伝えるか(家庭教師の生命線である)、どんな比喩を用いるか、どんな逸話を挿むか、等々。だから指導には、ついつい力が入る。「もうちょっと肩の力を抜けば、疲れも溜めないのに……」「丸付けに、そこまで集中しなくても……」と考えるが、それはできない──教師としての「責務」「使命感」が許さないからだ。落合氏ほどではなくても、私なりの「重責」を感じている。だから、たまに仕事がお休みになり、解放されれば、やっぱり嬉しいのだ。

若い人たちがこれから仕事を続けていく中で、「休みたいなあ」という思いが芽生えたとき、それを「ネガティブな気持ち」だと捉えて自分を責めたりしないでほしい。あなたが責任をもって業務にあたっているからこそ、「休みたい」のであり、仕事に力を入れて疲れているからこそ、「休みたい」のだから。

40を過ぎた人間が、意気揚々と自宅を出発し、鼻歌交じりに満員電車に乗り込み、満面の笑みで同僚に挨拶し、目を爛々と輝かせながら仕事を始める……こんな怖ろしい光景があるだろうか! 「ああ疲れた」「休みたいなあ」など、あれこれ愚痴をこぼしつつも、やっぱり好きで、退職する日まで続けられる仕事──きっとそれを、「天職」と呼ぶのだろう。

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