【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
つらいを未来に
埼玉県 小松崎 有 美 34歳

人生の3分の2をうつ病患者として過ごしている。おまけに摂食障害もある。気分を天気に例えれば「晴れ時々大雨」または「2週連続くもり」みたいな日が繰り返される。頑張れば頑張るほどに症状は闇の深いところに落ちていく。グルグル回る思考に、ふわふわ浮いた足、鉛のように重い身体。大学も6年かかった。ようやく私という「車」は教員免許を手に動き出そうとしていた。が、すぐにガス欠状態になった。うつの再発である。休職という出口のないトンネルだった。動かない私を動かしたものは職場の上司であった。ボランティアに行ってみるといいと。そこで知り合いの方が運営している不登校のためのフリースクールを案内された。でも時が迫ってくるにつれ逃げたくなる衝動にかられた。断ろうか。いや、上司の手前もあるし。飲みかけのストローの中で答えが上下する。結局母親に手を引かれて行ってしまった。繋ぐ手がそのまま背中を押す手になった。入室すると小学生から高校生まで思い思いの時を過ごしていた。私は初めてなのに何処となく我が家のような空気を感じた。その日は輪になって語り合いをした。チーフが口を開くとそこはたちまち「命の教室」になった。自分という存在を大切にする「自分づくり」をしようと。それがこの場所なのだと。そしてチーフは私にも語る時間をくれた。そこで私は病気や学生時代の失敗談をした。するとそれを聞いた子どもたちは時に笑い、最後は皆が泣いてくれた。そしていつしか語り合いの輪は仲間の「和」になった。帰り際チーフが私にこんな話をした。「私たちは道で血を流している人がいたら助けますよね。ここの子ども達は心で血を流している。だから見えにくい。でも絶対助けるべき存在だ。」と。その言葉を受けて、ここで病気にひたすら耐えてきた自分を鍛える自分にしたくなった。そう、一念発起この世界に飛び込む覚悟を決めたのだ。もちろん不登校の子どもたちと密に接する経験はこれまで一度もない。でも私の話に笑い、涙してくれた子ども たちに、逆に私が元気をもらえたのも事実だった。

正式に入社が決まると踏み出す足は意外と軽かった。もちろんうつ病が寛解したわけでもなく、摂食 障害がピタッと止まることはなかった。突然涙が出たり、食べたものをわざと吐いたりすることはあった。でも職場が第二の居場所になった。いつだって私と子ども達に「ただいま」と「おかえり」がある場所、そこがフリースクール。私の仕事上ではこの病気もキャラクターになってしまう。私がこれまで 味わってきた「つらい」過去の話をすれば、時に子ども達の「未来」を照らす明かりになる。ありがとう、聞けて良かった、話して良かったと言われる日々に私は感謝しかない。

・残念ながら1昨年慕っていたチーフが帰らぬ人となった。でも亡くなってしまったら関係は終わるのか。いや関係は変わるのだ。今度は私がチーフの思いを繋いでいく番だ。だから今日も私は子ども達の声に耳を傾け、時に自分をさらす。子どもたちの明るい笑顔はどんな豪華な食事にも勝る私の薬である。クタクタになって帰ってもふと、その日の子どもの姿が浮かんでくる。「ゆみ先生、なんか気が楽になったよ」と言ってくれたあの子。嬉しいじゃないか。だって、そもそも「はたらく」とは「傍(はた)にいるひとを楽にする」ことだから。私のつらい話も誰かの未 来になって私の周りにいる人たちが気楽になる。これが私の「はたらく」なのだ。そう今日も心に強く誓って私はスクールに向かう。

戻る