【佳作】

【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
今の自分に満足
愛知県 N.H 41歳

大学4年で受けた教員採用試験は不合格。地元の中学で働きながら採用試験の勉強をし、充実の日々。

今年こそ合格したいと、熱望していた。

8月。大学を卒業し、一足先に社会人になった友人との会食。仕事に充実した顔つきの友。給料を得 て、実家に恩返しを始めたと話す友。就職と一人暮らしを同時に始め、共働きの両親の苦労がやっとわ かったと話す友。皆の顔がまぶしかった。大学を終えてなお、夢のために親に甘えている私。これでい いのかと、自己嫌悪に陥った。当時、父がリストラされ、もともと夫婦仲も悪かった両親が離婚し、我 が家は貧しかった。中卒の母が得る、少ない給与と、私が家に入れるわずかな給与で暮らしていた。「こ のまま、教員採用試験を目指していいのだろうか。正社員となり、母を安心させるほうがいいのではな いか。」悩んだ末、9月から就職活動を始め、教育関連の会社に正社員として採用された。しかし、その 会社はブラック企業。有休もなく、残業手当もない。もちろん賞与もない。採用時には「福利関係はき ちんとしている。賞与も出る。」と聞いていた。後悔先に立たず。とにかく、がむしゃらに働いた。午前 0時から朝6時までミーティングをし、そのあと通常業務という日々で、体が悲鳴を上げた。めまい・ 吐き気・食欲不振。医者に休養を薦められ、上司に相談したが、「忙しいのはあなただけではない。能力 が足りない。」と責められ、当時上司が抱えていた顧客とのトラブルの責任をなすりつけられた。心身と もにボロボロになり、勤めて一年半で、私は会社に捨てられた。

失業した私に母は言った。「体を壊しては元も子もない。あなたは、何をしたいの。」 私は何をしたいのだろう。学ぶ喜びを伝えたい。課題に挑戦する喜びを感じてほしい。課題を乗り越え た時の達成感を共に味わいたい。初めから、私のしたいことはわかりきっていたのだ。子供たちに、少 しでいいからよい影響を与えられる教師になりたい。教員採用試験を受けよう。「もう一度やるぞ!」と いう、熱い情熱というより、深呼吸のように、静かで深い決意だった。

休養中に地元の中学から非常勤講師のお話を頂き、働く喜びを噛みしめながら勉強することができた。

今回こそは、という焦りはなく、受かるまで頑張ろうと、肝が据わった自分がいた。

私の挑戦の傍らで、母が、少しずつ壊れ始めた。頭痛・吐き気・呂律が回らない・突然感情を爆発さ せる・・・。原因がわからず、病院を何件も回った。ベッドの横に無造作に置かれたカルテに「この患 者は宇宙人だ。体はどこも悪くない。精神病だ。」と書かれているのを見た。心無い表記に、私は泣いた。

心を病んでいるのなら、その治療をと思い、精神科にも入院した。症状は重くなるばかりだった。最後 にたどり着いた病院で「乳がん」と判明。がん細胞が塊にならず、レントゲンには映らず、すでに全身 に転移し、余命一月を宣告された。脳に転移したことが性格の変化の原因とのことだった。珍しいがん だから、早期発見ができなかったのは仕方ないといわれた。もう、私は泣く気力もなかった。

母の闘病の只中に、採用試験へ挑んだ。結果は合格。かろうじて意識があった母に、合格を伝えると 「よかったね。がんばったね。あなたは私の自慢の娘だよ。」と言ってくれた。嬉しくて、でも母に残さ れた時間はあまりに短く、恩返しができない悲しさと悔しさで、私は病室で声を殺して泣いた。私の合 格を見届けるように、母は天国へ旅立った。

今、私は中学で非常勤講師をしている。結婚・出産を経て、多忙な教員の仕事と、家事育児との両立 は私には無理だと思い、正規の職を辞した。よって、私は安部政権の求める「輝く女性」ではない。し かし、正規の職員を辞めたことに、全く後悔はない。給与を得るための勤務は短時間でも、家事、育児、 地域のボランティアなど、給与の発生しない仕事で輝こうとする自分を知っているからだ。

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