【努力賞】
【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
もう一つの日本史
アメリカ  近江啓太  35歳

私が日系人の歴史に触れたのは過去30年間にたった二度だけであった。初めの20年間は絶対に見なかった。又見ようという意思も機会も無かった為、その二度は何方も後の10年の内で、しかも意識的に意味を見出して出て来たのだ。

一度目は渡米して間もない時で、大学の先輩が留学先の大学院で書き上げた修士論文をカリフォルニアで英語の特訓がてら読んだ時である。現地調査、日系人の家族の方々への取材訪問を通じて得られた知見が、美しい英文と芸術とも呼べる写真の複合情報媒体で綴られていた。

二度目は政治科学を大学院で勉強する傍ら、留学先のユタ州の大学で現地の学生に日本語の授業を教えていた時分だ。生徒其々に課した個人研究で、日系人の歴史に関する書籍を日本語に翻訳したいと希望する生徒がいた。彼の仕上げてきた日本語翻訳を添削指導した。完成した作品に在米日系人の歴史を学んだ。

ある日、その生徒から結婚披露宴への招待状が届いた。同封された写真には竹林を背景に撮った新婚ホヤホヤの二人の笑顔。参加の意思を直ぐに伝えた。

当日、会場に一人で現れた私であっても、彼の家族が温かく出迎えてくれた。見知らぬ人で溢れかえる披露宴会場で、偶然にも会場で最初に話しかけた男性が、戦中、強制収容所の学校を卒業した彼のお祖父様だった。笑顔絶えないお祖父様が、是非一緒に食事を取って行って下さい、と勧めて下さった。

早速、折り鶴をあしらった生け花が飾られている新郎の親戚の卓について、ビュッフェ形式の食事を取った。席を隣にした女性は、僕が彼の日本語指導をしたと知るや否や、日本語で自分の名前どう書くのかしら、私の息子はと、質問の嵐。すぐ様、日本語授業を開始。漢字、読み仮名、意味、紙布巾に記した。学んだ日本語を彼女は大事そうに鞄に閉まっていた。担当した授業の生徒から人生で生まれて初めて結婚披露宴の招待を受けた喜びの種が、日系人の家族との交流の中で、殻が弾け、何か別のものが自分の中に芽生えたような気がした。

毎年、この季節には全米各地で、盆踊りを催す祭り事が開催される。当日は、多くの日系人の志願者が大人から子供まで様々な形で祭りの運営に携わる。時の経過で歴史に埋もれ兼ねない日系人の歴史はこうした人々の日々の努力、四季折々の催し物の御蔭で受け継がれている。もう一つの日本人の歴史は脈々と海外でこうして継承されている。

翌週に出掛けた盆踊り祭りで、繰り返される踊りの輪の何かに、色鮮やかな浴衣に身を包んだ少女が笑顔で手を振っている。どこかで見掛けたような……。

(あっ、思い出した。披露宴会場で、頻繁にお喋りを交わした新郎家族の親戚の子だ。まさか覚えていてくれるなんて)「そういえば、結婚式で会っていたよね」と声を掛けた。結婚式の洋風の召し物とは一転して可愛らしい紫の羽織に、白のリボンの髪飾り。すると、座席に腰掛けていた僕の足に手を回し、挨拶のハグ。未来の日系の歴史に思いを巡らせれば、椅子の高さにも満たないこの子がか細くも決して途切れる事のない紡ぐ歴史の糸なのだと、ハグの温もりが夏の蒸し暑さを忘れさせてくれた。

移民問題で揺れる昨今、日系人の生き様が歴史の教訓となる、数多くの物語が存在する。日本では中々知り得る事の無い、日本人の歴史の別の幕を垣間見る、体験する事が出来る。日本語を海外に広く伝える事で日本再考・再興の次世代を育てて行きたい。先人の日系人の方々が新たな覚悟を僕に見出してくれた。

不図見上げたソルトレイクの空は、ボンヤリと光を灯す提灯が心地好さそうに夏風に揺れている。誓い新たに、お気に入りのロードバイクを走らせた夕暮れ時、故郷の日本が懐かしく、又恋しくなった。

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