【努力賞】
中年からの求職活動
愛媛県  藤田哲夫  73歳

昭和35年。中学を卒業して地元の大企業に就職した。28年後、余剰人員削減で中高年を対象に人員整理が行われた。私は、肩たたきに抵抗しきれず離職に追い込まれた。半年後、中小企業に再就職して68歳まで働いた。

昭和30年代は、高校に進学する者が四割程度で、中卒で就職するのが当たり前だった。

中学の担任と両親に、地元の大企業に就職するように勧められた。理由は、「大きな会社に入れば、給料、賞与が良い。福利厚生も整って倒産の心配がなく、定年まで働ける。世間体もいい」とR社を薦めてくれた。

中学の三年間は、学年で上位の成績だったので、学校推薦でR社の入試試験を受けた。同じ中学で三名受けて、私だけ合格した。

中学を卒業して、どんな職業に就きたいのか確固たる信念と具体的な目標が無かった。十数年、R社で真面目に働き、大過なく勤め上げた。特に不平、不満や違和感がなかった。

結婚して、30過ぎてから様々な苦労を味わった。が、そこそこの給料と待遇。良い思いをした事もあった。長期の海外出張・想定外の転勤・出向・配置転換等も経験した。その間、大小の合理化があったが、余剰人員削減で「早期退職」の肩たたきに遭う事は予期していなかった。

人員整理は、四十代の半ばの頃であった。当時、築二年のローンの返済、大学生二人の子供への仕送り等で、退職勧告に応じられなかった。

人員整理の常套手段は、私のような立場にあるものを標的にして退職を促がした。労使協定で組合も黙認していた。違法スレスレの強引な退職勧告を拒み切れなかった。

在職時、色々な形で会社に貢献した自負があった。仕事の改善・部下の養成・特殊技能・資格取得等も考慮されなかった。有無を言わさず、合法的な方法で解雇に追い込まれ、なす術もなく悔しい思いをした。

私と同世代のKは、仕事の貢献度は低かったが、上司に受けのいいイエスマン。要領の良い彼のような者が生き残った。

妻は、寝たきりの母親の介護をしていたが、義姉に介護を任せ、昼夜掛け持ちのパートで家計を支えてくれた。

割増の退職金を貰って「希望退職」の名目で早期退職した。

翌日から、ハローワークに通ったが、中高年者を雇う企業は皆無であった。履歴書を送っても、面接有無の返答すらなかった。何度も挫けそうになったが、妻に励まされて就活に奔走した。

失業保険が切れた月に再就職先が決まった。大企業の就職下請け会社H社の面接を受けて採用してもらえた。以前勤めていた会社の半分程度の給料だった。面接時、各種の資格保有、専門職の履歴を評価してもらえた。

H社の定年は60歳だったが、請われて毎年更新してくれた。年金受給の歳になっても繰り下げ受給を希望し、68歳まで働いた。

再就職した翌月、社長に「競争率3倍の狭き門だったが、私を雇ってくれた理由は?」と問うた。「資格の保有数と、前職の専門職が決めてだった」と答えてくれた。

「前職のプライドを捨て、給料に拘らず地道な求職活動した執念と努力が報われたのだね」妻は、退職した日、労いの言葉を掛けてくれ、晩酌の酒を一本追加してくれた。「辛抱して就活に励んで良かった」と胸の内で妻の内助の功に感謝した。

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