【佳作】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
教師になって
北海道  近藤正博  67歳

私は公立高校の教師として、四十二年間を無事終え、現在、時間講師をして二年目になろうとしている。大学四年の時、民間の旅行会社に勤めるか、教員になるかと迷ったが、高校時代に尊敬する先生がいたことと、少しでもいいから自由と創造性のある仕事に就きたかったことなどから、教職の道を選ぶことにした。そうして今、自分が歩んできた道を振り返ってみると、教職に就いてよかったとつくづく思っている。確かに教師になりたての頃は、教材研究に追われ、毎日十二時近くまで勉強しなければならなかった。大学で学んだこととは別に、教えるという立場からする勉強は、実に大変だった。教材をいかにして生徒たちに分かってもらえるか、そのためにはどのように教えたらいいのか、教室という場をいかに活用したらいいのか、そしてそのためには教材の中身も徹底して分析しておく必要もあった。また、自分だけで判断できないところは、先輩の先生方に毎日のように相談した。そうして三年程して、やっと人並みに授業ができるようになった。

その間、自分は教師に向いていないのではと思い込み、教師をやめようかと、思ったこともあったが、逆に生徒から「先生は教え方はまだわからないところもあるが、僕たちの質問に真剣に答えてくれるし、あてられたときは、一人一人の答えを大事にしてくれてよかった」などという感想文に励まされ、教師を続けることができた。ある時などは、(その時はちょうどバレンタインデーの日だったが)トイレ掃除の監督に行くと、男子生徒たちから「いつも先生にはお世話になっていますので、これどうぞ」とチョコレートをもらい、私は感激してそれを皆で一緒に食べたこともあった。三年目からは担任をもつようになった。そうして退職するまでに、八回程卒業生を送り出している。担任をもつと、約四十名の生徒一人一人の個性と深く関わり、学習や生活、そして進路についても大きな責任を持つことになる。時には、不登校の生徒の家へ何度も家庭訪問をしたり、親との関係がうまくいかず、家出をした少女を何とか探し出し、親もとへ連れ帰ったり、万引きや喫煙などの生徒を指導したりなど、実に忙しい日々を過ごしてきた。それでも、相手は生きた人間であり、話せばほとんど分かってくれたし、不登校だった生徒が何とか通えるようになった時には無上の喜びを感じたものだった。教職というのは実に大変で、自分の思いどおりならないこともままあるが、確かに創造性があり、夏休みや冬休みには少しの自由な時間を持つこともできた。また、職場もほとんど上下関係がなく、お互いが信頼関係で成り立っているので、この仕事に就けたことに心から感謝している。私の友人達は、ほとんど民間の企業に勤め、給料も私よりは高かったが、民間に就職しなかったことを一度も後悔したことはなかった。

社会というものは、それぞれの役割をもった仕事をする人達の協力によって成り立っている。娘が大病になった時はつくづくそれを実感した。医者がいなければもちろん娘は助からなかっただろうし、また病院へ行くまでのタクシー運転手にも世話になったし、タクシーが動くには道路を作る人が必要であり、車を作る人も、また病院という建物を作る人、管理する人、看護師…など、さまざまな人がそれぞれの役割を担ってくれているからうまく機能し、皆がその恩恵を受けているのだ。だから仕事に就く人は自分が社会の中でどの役割を担いたいのか、何が自分に向いているのかを考え、そして誇りを持って一生続けていける仕事を選ぶべきなのだ。給料や福利厚生も大事だが、やはり天職という言葉があるように、自分がいったいどのように働くことを求めているのかを十分見極めて職業を選ぶことを、若い人たちに求めたい。

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