【 努力賞 】
【テーマ:非正規雇用・障害者雇用で訴えたいこと】
そやし泣いたらアカンねん!
埼玉県 奥山真理 56歳

どう考えても私には無理な話だった。
「だからね、勉強以外の道を探した方が…」

視線の先では、従姉の息子である5年生のN君が、塾の教室の真ん中で、所在なさげに座っている。ついさっきまで、床に寝転がったり全裸でトイレへ行ったりしていたのだが。
「そんな。何とかこの夏休みに、今までの分を挽回させたいの。近所の塾に行かせたけど、学生のアルバイト講師じゃ埒が明かなくて」
従姉にとって、講師歴20年の私が最後の砦のようらしい。だからこそ5年ぶりに、1時間半も掛けて訪ねて来たのだろう。音信を絶っていたその間に、彼女は親戚中にN君の遅れを伏せ、孤軍奮闘してきたのに違いない。
「Nは、日常生活なら問題ないの。勉強だって、計算問題ならかなりいける。歴史なんて、私よりよく知ってるんだから」

クーラーが強くきいている教室の中で、脇に汗染みを作りながら、従姉は反論を続けていた。障害名を付けることで終わらせたくない、子供が越すべき山は越させたいのだ、と。
「私はね、事実を認める方が先だと思うワケ。まあ、『個性』って言葉を盾にして、子どもを教育しない親より、ずっといいけどさ」
「とにかく夏休みの間は通わせる。もしかしたら、詰まった管が通るかもしれないでしょ」
「もういい加減にして。そんな無理が叶うなら、私、人生を1年生からやり直してみせる」

何を言っても聞く耳を持たない従姉に、辟易しての言葉だった。

翌日、予約の30分前にN君はやってきた。
「あれ、一人なの? お母ちゃんは?」
「お寺で疲れはったし、ボクが乗り換えてん」
意味不明な部分もあったが、一人で来たことは理解できた。方向音痴の私には到底無理だと感心してみせたら、何故かお寺のパンフと朱印帳を、鞄からチラリと出して微笑んた。
それ以来ずっと、N君は一人で通ってきた。
「今日は、紫式部の源氏物語のお寺やった」
「松が横に生えとった。お抹茶も飲んでんか」
と、私に自慢するのを、一番の楽しみに。

お盆を過ぎ、久々に従姉が同行してきた時には、色白だったN君の顔は褐色に変わり、朱印帳の頁もゆうに半分を超していた。
N君を見る、従姉の視線がやわらかい。
「この子の好きな歴史をきっかけにしたら、何かが好転するんじゃないかと思ってね。それで、西国三十三ヶ所巡りを始めたの。ふたりで毎日、10キロくらい歩くのよ」

N君のような子は筋力が弱いので、それを鍛えるためでもあると言う。アスファルトが熱を持たないうちに帰宅できるよう、日の出と共に家を出て…。切ない親心を知らされた。
「でも道中いろいろこの子と話して、私も悟ったわ。そろそろ事実を受け入れなきゃって」

そう、と答えた私に、彼女は「だけど私たち親が死んだ後、どうやって生きていくのか」と、床に目を落とした。ぽとぽとっとこぼれた雫が、カーペットに吸い込まれていく。それを見て、歴史の漫画を開いていたN君が、従姉の背中によじ上り、首っ玉に抱きついた。
「ボク、お寺を案内する人になんねん。明日もお寺に連れてったるし、うちでお抹茶も作ったる。そやしお母ちゃん、泣いたらアカン」

しばらくの沈黙の後、笑い声が重なった。
「ゴメン。約束通り、私一年生からやり直す」
「ばかね」と彼女が微笑んだその一年後、私は厚い封筒を手に、N君を中学から養護学校に入れることを決めた従姉を訪ねていた。
「大学院 秋季試験合格通知! ええ?『対人援助学領域』って、あなた本当に…」
「46歳で受験は、チトしんどかったけどね。2006年4月から、正真正銘の一年生!」

従姉の手が小刻みに震えている。これからは私もいるよ、と心で呟いた時、一休さんの様に刈り上げたN君が、二つの抹茶茶碗を乗せたお盆を持って現れた。ひと口飲んで「丁度良い塩加減ね」と横を見ると、従姉の頬も濡れている。伝わり落ちたその雫で、小さな水の輪が、鶯色のお茶の上に広がっていた。

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