【 佳 作 】

【テーマ:私が今の仕事を選んだ理由】
神様のご褒美
千葉県 小山年男 85歳

今日は初出勤の日である。昔憧れた石作りの正門を胸を張ってくぐった。行きたくても貧しいが故に行かせて貰えなかった高校の門を今、教師として入る高揚した気持ちは、誰にも解るまい。私は落ちる涙を拭った。

私の兄弟姉妹は皆小卒で終りであった。男子は工員、女子は東京へお手伝いさんとして奉公に出された。それが運命と思った。私もそうなる運命を、担任の先生が変えてくれた。父を説得してくれ、高等科に進むことが出来た。一方裕福な家庭の子弟は上級学校に進んだ。皮肉にも我が家は、その上級学校の真ん前にあった。友人達の楽しそうな通学風景を、いやでも見せ付けられた。私はただ羨ましく眺めるだけだった。

高等科を卒業した頃、日本は戦争の真っ只中。進路は軍需工場で働くか、少年兵を志願するかどちらかだった。少年兵を選んだ私は、先の見えない戦闘訓練に明け暮れた。

やがて戦争が終り故郷に帰った。騒然とした世の中がやっと落ち着いた頃、町に高校の定時制ができた。私も親類の農家の手伝いをしながら、他の生徒より4年遅れた生徒になった。少年兵時代に鍛えられたガッツで成績は上がり、やる気が出て「よし、大学へ行こう」と思うようになった。

吉祥寺に住む叔父の紹介で上京、新聞店の2階に住み込みながら、新宿の定時制高校に通った。朝4時に起き朝刊の配達、昼は集金勧誘、雑誌の配達をした。夜学の帰りは高円寺で降りて、明日配達の雑誌をリュックに背負い、吉祥寺に帰るのは毎晩10時を過ぎた。通学はいつも四谷まで乗越し、授業はいつも居眠り、先生に「今日は寝てないな」と冷やかされ、成績は超低空飛行だった。それでも大学生になれた。そしてどうにか卒業した。困ったのは夕刊の配達で、ゼミや教職科目が履修出来ないことだった。教員試験を受ける資格がないのである。

タイミングよく、店長をやってくれないかと懇請され引き受けた。仕事をしながら通信教育で念願の教員免許状を手にした。

やがて千葉県の教員の採用試験に合格、赴任校は驚いた事に憧れの高校だった。その学校は商業高校で、私の得意分野である簿記会計を担当できたのも幸いであった。また、店長の経験も授業に非常に役立った。

私は3年生の最後の授業では未来の夢として税理士や会計士を勧めた。届かなくても必ず知識が役に立つからと話した。

先日、1人の卒業生が尋ねて来た。「先生が授業で勧めてくれた会計士試験に合格しました」と言う。2人で細やかに祝杯を挙げた。

ところで教師は30年以上勤めると教育功労者として表彰される。私は人生の遠回りをしたお蔭で30年に満たなかった。でも、私が蒔いた種から一杯花が咲いて、実が生ったではないか。それでいいさ。神様がご褒美を一杯くれたんだから。

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