【 努力賞 】
【テーマ:私が実現したい仕事の夢】
私が実現したい仕事
大分県 古岡孝信 72歳

私の仕事の夢は、あってないようなものでした。というのも、昭和17年3月2日生れで、農家の長男でしたから、親から「高校を卒業したら百姓をして、親が歳とったら面倒をみてくれ」というのが口癖でした。私はあまり好きな仕事はなかったのですが、反抗も出来ず、両親の意見に従うしかないと思い込んでいました。

何が幸いするか分かりません。高校3年の3学期に盲腸炎を患い手術をしました。それも急性でしたので、その日の内に手術をすることになったのです。ところが、終戦直後で今のような医療でなく、手術は成功したものの、後の養生が悪いのと医療の技術が悪かったのとが重なり、腹膜炎を起こして、5回ほど手術をし、2年間ほど家庭養生をすることになりました。両親はこの体では百姓が無理だということで、自分の好きなことをすればという、思いもしない幸運が舞い込んできたのです。

私はもともと体が弱かったこともあり、自分としては百姓は望んでいませんでした。自分では学校の教師でもしながら、好きな小説家になるのが夢でした。よし、それならと覚悟を決め、当時、大学へいく余裕もないので、村役場で働きながら大学の通信教育を受け、教員の免許を習得して、高校の教員の試験を受けました。大学は4年で卒業出来ましたが、採用されるのに3年かかりました。

結局、自分の好きな仕事のスタートラインに立つのに9年かかったのです。でも、好きな仕事でしたから、ただの一度も、いくら辛くても止めようとは思ったことはありませんでした。ところが、何年かかっても思ったようにはいきませんでした。ただ、小説家になりたいという夢は大きかったのですが、こればかりは思うように行きませんでした。応募しては落ち、また応募しては落ちを何度繰り返したでしょうか。百回、いやそんなものではありません。まったく素人から始めました。指導をしてくれる人もいません。それでも、自分の好きなことでしたから、両親や兄弟から猛反対を受けましたが、こればかりは諦めませんでした。父が元気な間にと思っていましたが間に合いませんでした。母が父より長生きしましたが、とうとう母の時にも間に合いませんでした。

自分には才能が無いのだと諦めかかっていると、小さな賞が入るのです。私の夢はあくまで芥川賞です。口で言うのは簡単ですが、候補にも挙がりませんでした。でも決して諦めた訳ではありません。高校の教員を30年間務めた後、退職してペンの道に入りましたが、だからといって書けるものではありませんでした。でも、自分の選んだ道です。諦める訳にはいきません。

つい先日、50年集をまとめました。その時の決意は、目標までまだまだ時間がかかりそうですので、今、体力作りに励んでいます。体力で勝負しようと思っています。先日、芥川賞を77歳の黒田さんが受章しました。私は後2年残っています。もう時間はありません。足りません。でも今では最高高齢者を目指して全力で頑張っているということだけは、自信をもって言えます。

どうか最後に若い人たちへ、母の言葉を借りて言いたいのは、一つの仕事を覚えるまで10年は最低かかると、私に亡くなるまで忠告していました。私は3倍も5倍もかかっていますが、自分の生の続くかぎり努力だけは続けたいと決意しています。どうか、自分の好きな道だったらなんでも出来ると思います。ぜひ頑張り通して下さい。結果は自分が努力した分だけは必ず出てくると確信しています。結果も大事ですが、それよりもっと大事なことは、これまでやってきたプロセスではないでしょうか、と。

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