【 努力賞 】
【テーマ:非正規雇用・障害者雇用で訴えたいこと】
銭湯という自習室
東京都 穴沢素子 50歳

女子大生の頃バス通りに面した銭湯に通っていた。番台には地域で人気者のおかみさんが坐っていた。その前にはテーブルとイスがあり、よく湯上りに冷えた飲み物を口にしながら客同士がだべっていた。そこにはほのぼのとした人と人との触れ合いがあった。

湯上りに私は好きなコーヒー牛乳を飲んでいると、テーブルの隅でテキストを読んでいる女性をよく見かけるようになった。さらに同じ女性が、ジェット風呂に入りながら、一枚のレポート用紙を読んでいる姿もよく見かけるようになった。

風呂の中でまで勉強するとは、彼女はどういう人なのであろうかと私は気になってきた。

銭湯のある通りに規則正しく植えられた木々の若葉が鮮やかさを増すようになってきた。
私が頭から勢い良くシャワーを浴びていると、隣の人も同じようにシャワーを浴びていた。目の前の鏡には2人の若い女性が映っていた。銭湯の隅でいつも勉強している彼女だと私はすぐに気づいた。
「私は今、新聞配達しながら予備校に通っているの。朝刊と夕刊の配達の他、月末からは集金もしなくてはならないので、勉強する時間を見つけるのがとてもむずかしくて」

そういう事情のある人だったのかと。いつも同じような紺色のジャージの上着とズボンを身につけていて、ややきつい目つきをしていた。
「銭湯の隅でも、お風呂の中でも集中できるなんてすごいわね」

朝晩はめっきり涼しくなって、空が高くなってきた。

湯上りにコーヒー牛乳を飲む私に、彼女は話かけてきた。
「夏休みには、日中近くの図書館で予備校の一学期のテキストを何度も復習したわ。店の人から日中営業の仕事しないかと誘われて困ったわ」
「店にいいように使われないように気をつけることね」

店が学費をだしてやっているからと、浪人生をこき使おうとするやり方には腹が立った。

色づく落ち葉が道路に敷きつめられる頃となった。やや冷たい北風に当たって、温まろうとまずジェット風呂に入った。私の姿を見つけると彼女はプリントから目を離して話かけてきた。彼女の顔には春の頃に見られなかった柔らかさが広がっていた。
「一緒に店に入った数名の中には、予備校に全く行かなくなった人もいるの。私は各科目一つずつ授業に出て、他の時間で志望校の5年分の過去問を解いてるの」
「やるべきことをちゃんとわかっているのはすばらしいわ」

私は彼女との対話を通して、人生の奥深さを学んでいると考えるようになった。それまでは学校は親に通わせてもらって当然と思っていたが。

恥らう乙女のような梅の花びらが開き、その甘い香りがあちこちに漂うようになった。

私がジェット風呂に入っていると、プリントを持たない彼女が入ってきた。
「憧れの大学に合格できました」

そう語る彼女の口調には力強さがあった。先が見えなくてどこかおどおどした苦学生から、若さと自信にあふれる大学生に、彼女はみごとに脱皮していた。

「この一年のがんばりは、貴女の一生の宝ものになるでしょう」

今や、内風呂つきのアパートやマンションが増えて、銭湯がどんどんつぶれていくのは残念なことだ。人生を力強く切り開こうとする若者と触れ合えた、私にとっては思いでの場所なのに。

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