【 佳 作 】

【テーマ:私が今の仕事を選んだ理由】
女性である前に 一人の人間として
北海道 森谷京子 65歳

高卒の春、私はスーツケース片手に、父の留守を見計らい家を出た。周囲の反対をよそに、役場で住所を調べ、福祉施設10ヶ所に手紙を出した。1ヶ所から返事が届き、無資格のまま「児童養護施設」で、住込みで働く事になったのだ。考えてみれば、有り得ない様な話であるが、私の福祉への道はここから始まったのである。

バスを降りて、施設までの道のり、「インディゴブルー」の宇宙に1人放り出された様な記憶が、今でも鮮明に残っている。

私は、18才まで自然環境の素晴しい田舎で育った。母は農家の出面(デメン)に行き、私も母に付き、幼児教育は全く受けていない。毎日、田園の畔で昼寝をしたり、小川で水遊びをし、小魚の群れを観察し、水面に差す太陽の光に目を奪われ、1日中あきる事なく過ごしていた。母がどこに居るのか確かめつつ、厳しい環境の農村で働く多くの女性の姿を、幼いながら観てきた様な気がする。 冬は、近くの町で仕入れた「油揚げ、カマボコ」等、又、母手作りの「ラーメン」を行商した。当時、店も無い農村では、飛ぶ様に売れ、母はいつも明かるく元気だった。

農村から更に山奥に、樺太から引き揚げて来た人々が住む集落が有り、私達親子をいつも暖かく迎え入れてくれた。笑顔と囲炉裏を囲んだ団欒を忘れる事は無い。

いつの頃からか、私はやりがいのある仕事がしたいと思う様になっていた。父が望んでいた「オフィスレディー」になり、適齢期に結婚するという生き方は、良しとしなかった。高3の冬休み、「肢体不自由児」の福祉施設を見学し、卒業後働かせて欲しいと申し出、断られるが、恐るべき勇気と行動力が懐かしく、今尚愛しい。

特別根拠が有った訳では無いと思うが、母の苦労と、時代がそうさせたのだろうか。「生きる」という姿勢に厳しく、「女性である前に、1人の人間として生きよ!」という育て方であった様に思う。当時の田舎では、珍しい事だったかもしれない。

1通の手紙で人生を切り開き、同意し受け入れて下さった園長先生に、感謝の念を忘れてはならないと思っている。

施設では、先輩達との出逢いや助言も有り、保育士として学ぶべきと考え、夜学へ進学し保育士の資格を得た。昼間働き、夜学び、活気に満ち、充実した学生生活であり、多くの友との出逢いは、宝物となっている。

 保育学院を卒業してから、現在に至るまで、福祉一筋に歩いてきた。私は現在65才になるが、3月まで現役フルタイムで、「発達障害児」の療育支援の保育士として働いてきた。就活するも年齢制限が厳しく、自己否定されている気がしたが、人生を見つめ直す良いチャンスと考える事にした。

今、私は人生の集大成、「第2楽章」に突入したのだ。「生と死」、命を使うと書く、「使命」とは何か、等々、思いめぐらせている。

そして又、亡き母の人生を想ってみる。裕福な家庭に育つも、「女である」が故に教育を受けられなかったと、悔しそうに何度も語っていた。母は、私達を「智恵」だけで育てたのだ。時代に翻弄されつつも、明るくたくましく生き抜いた母を、誇りに思っている。考えてみると、私は母の口惜しかった人生を少しだけ背負っていたのかもしれない。

年を重ね、少しずつ解放され、細い記憶の糸をたぐり寄せ、静かに、「我が内なる魂の声」に耳を傾けてみる。厳冬の、幼き日、囲炉裏を囲んで、私達親子を笑顔で待ってくれた人々の姿が、「原風景」の様に蘇ってくる。

「第2楽章」は、今までの自分を活かしきり、待っててくれる人々の元へ行き、笑顔で寄り添って、生きていこうと思っている。

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