【 佳 作 】

【テーマ:女性として頑張りたい仕事・働き方】
二足のわらじで さっそうと生きる
沖縄県 松井純子 59歳

子ども達が学校から帰宅した時
「おかえりなさ〜い」
 と迎えたくて、伝統手織りの内職を始めた。

母が介護生活になっても、うろたえない自分でいたいとヘルパー2級の資格を取得した。母は晩年、脳梗塞による認知症、左半身麻痺など全介助の身であったが、在宅で家族と共に暮らした。月・水・金はデイサービス(その3日間、私は訪問ヘルパーとして外で働く)

家にいる時の母はよく歌った。童謡、歌謡曲、沖縄民謡など、機織りをしている私に届けとばかりに大きな声で歌っていた。
「母ちゃん上手〜、もっと歌って〜」

介護生活は長くは続かず、3年前ありがとうの言葉を遺し、父の元へと旅立った。

私は今でも3日間、訪問ヘルパーをしている。歌好きは母譲り、利用者さんと大きな声で歌う。
「お上手!!腹筋が鍛えられていいですね〜」
 家事全般を1時間でこなし握手をして退室。
「ありがとうね〜、又来て下さいね〜」
 そのお言葉が嬉しくて、5年目に入った。

私の本業ともいうべき仕事、八重山ミンサ―の織り工として20余年になった。
工房から“マキ”と呼ばれる織糸を貰って来て糸通し、横糸を渡しながら五・四(いつよ)の模様を織り込んでいく。1ミリ1ミリしか進まず根気のいる仕事だが、好きだから苦にならない。“いつの世までもお幸せで健やかに”と真心を込めて織っていく。

私には夫が1人、幸せな事に6人の宝子が授かった。夫は公務員であったが一身上の都合で退職した。それからが大変であった。

長女小1、次女幼稚園生、三女・四女の双子が4才、長男は1才だった。

農地を購入し、無農薬のいんげん栽培を始めた。私は勿論、母・子ども達も畑に行き真っ黒になるまで働いた。

貯金を取り崩しながらの生活は、先が見えず不安だらけだったが、子ども達の笑顔に支えられ、10年後を展望する事で生きられた。
♪朝はどこから♪の希望の家庭・働く家庭・楽しい家庭の3本柱を守って、家庭経営をして来た。
1人1人に将来の夢を聞き、新聞配達で夢貯金をし、年に1度は家族旅行も楽しい思い出だ。我慢だけでは豊かな人格にはならない。

結婚から13年目、長男とは7才下に待望の次男が生まれ、長男は“仲間だ〜”と大喜び。

その長男、7年間の大学生活の末、やっと去年3月に大学を卒業し、好きな仕事で日本中を東奔西走の日々だ。

4人の娘達も、大学時代は奨学金を借り、アルバイトをしながら卒業し、希望の職業へと就いて、社会の一員として貢献している。
6番目の次男は、一浪をするも好きな学部がある大学に合格が叶い、上の5人同様充実した学園生活を送っている。

常日頃思っている事がある。
古い考えかも知れぬが、女性は妻となり母となったら、夫を支え、子と夢を語り、子ども達の夢実現の為にがむしゃらに働き、達成へと導いてやる。

これが親にならせて頂いた責務と思っている。

これからも“歌うヘルパー”“機織り姫?”の二足のわらじを履き続ける。体力的に一足だけになっても、その時その時で考えれば良い。

好奇心旺盛な私の前に、何が現れても受け入れられる広い心の私でいようと思う。

今のところ、これが私の働き方である。好きな仕事を2つも出来る私は幸せ者だと思う今日この頃だ。

戻る